2012/03/31

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し

先週
木曜に
父方の祖父が亡くなり
週末に
通夜と葬儀のため
京都の綾部に

これで祖父母4人とも
鬼籍に入ってしまった

祖父との格別な思い出も
実のところなかったり
通夜が終わって
お酒飲み過ぎて体調悪くなったりと
人として未熟というのか
幼稚というのか
そういうものを一泊二日で感じた
道中だったのだが
それは個人的反省なので
ここではとりあえず


身近な人の死に遭遇すると
いつも
心のどこかがずっと痺れるというのか
低音による震えが
そんなに大きくはないんだけれど
絶え間なく続くような
そんな感覚になる
いつも

ありきたりなことだが
その人にとって
その人の一生が幸せだったか
幸せと感じれたのか
そんなことを
ぼんやりと
ずっと考えてしまう
もちろん
幸せだったかなんて
計りようもないし
勝手に決めつけるのも
おこがましいので
できようもなく

祖父に関しては
死の前日まで
本当に元気にしていたみたいで
朝起きてこないので
見に行くとすでに……
という状況だったらしい
長く療養中などではなく
ある意味
理想的かもという
しかも満95歳の大往生

どうだったのだろう
死に際して
生に関して
何か思うところはあったのだろうか
もちろん尋ねようもないし
うかがい知ることもない


僕自身は
生きることも
死ぬことも
同価と考えています
生にも死にも格別な意味はない
というのか
意味を持ってもいいとは思うんですが
その意味づけに操られるのも
どうかなと個人的には思っているからです
後づけでしかないのだから

意味があってもいいし
それを信じることを否定はしませんし
邪魔したりもしませんが

生きてるのも死んでるのも一緒なら
死んだら? と突っ込まれるかもしれないけど
僕自身は死が何かわからないし
死でできることもわからないから
生きている間は
生きてできることを享受しようと
生きている
わざわざ死のうとは思わない
という感じです

だから
いつ死んでも構わないというのか
まあ仕方がないと思っています
その辺りが
ある種の覇気のなさというのか
踏ん張りのなさに繋がっているのかもしれない
とも思っています
なんというのか
たとえば
えっちぃビデオ(今時はビデオじゃないですが)を
借りて帰る途中
ここでは死ねんぞ
恥ずかしいぞ
……みたいな感覚はないわけです
もちろん
えっちぃビデオ(あえて湿っぽくビデオで)を
抱きしめて死んでいたら
恥ずかしいのは恥ずかしいんですが
その恥ずかしさ自体を感じる僕が
そこにいないわけですよね
死んでいたら
だから考えても
どうしようもないというのか
考える必要がない
あちゃちゃあ
と一瞬感じてしまうのかな
とにかく
どうしようもなく
恥もひっくるめて
誰かに託すしかないでしょう
恥じることがないなんてこと全然なくて
ただ
恥を感じようも多分ないから
恥を抱えきれないくらい抱えながら
ありのまま旅立つしかない


生死について
ぼんやり
どうしようもないことを
考えていました

0 件のコメント :